2020/10/20 メインクエスト4.0-紅蓮【12.豪神スサノオ】を更新しました。

【雑記】コンテンツには、媒体によって差はあるのだろうか。物語はどう生まれ、誰のものなのか。

私は決して語り手側の人間ではなく、コンテンツを受け取る側です。なるべく多様なコンテンツに触れたい、触れていようと思って生きてきたので、それなりに見たり体験したりしてきた……ような気がします。そうでもないかも。

その中でもゲームが好きで、更にFF14はご覧のウェブサイトのようなストーリーをまとめるサイトというやたらめったら時間のかかる作業を嬉々としてする程度には楽しんでいます。

そんな中、電ファミニコゲーマーさんにこのようなインタビュー記事を見つけました。

内容はFF14とは全く関係がなく、デスカムトゥルーという実写ドラマ型ノベルゲームの製作者と、映像監督との座談会記事です。

これを読んでいて、どうもいわゆる“映像畑”の方が認識している「インタラクティブ」という言葉はちょっと違うのではないか、そしてエンタメの語り手と受け手の間で、「物語」というものに対する齟齬があるのではないかという気がしたので、自分の中で情報を整理する意味でちょっと書き出してみようと思いました。

どちらかというと「インタラクティブ」については話の枕で、「物語」についてが本質です。


インタラクティブ

そもそもインタラクティブとはなにか

最近……でもないかもしれませんが、よく聞かれる言葉である「インタラクティブ」。これは「相互に作用する」とか「双方向性」とか訳される言葉です。一方通行ではなく、どちらからも情報が流れるという点が肝であり、ゲームはインタラクティブ性のあるエンターテイメントであるといわれます。ソフトウェアから与えられた情報に対し、プレイヤーが操作をすることでソフトウェアが反応する。互いに影響しあっているわけです。

対して、映像作品は一方通行です。受け手の行動が物語に影響を及ぼすことは(ほとんど)ありません。テレビでドラマを見ている受け手の行動によって犯人が変わることはないわけです。ほとんど。最近はそういう取り組みをしている例もあるみたいですけど。

というわけで、一般的な意味でインタラクティブとは、受け手の行動が大なり小なり物語に影響を及ぼすものをいいます。その意味で、大きく括ってゲームはインタラクティブなエンターテイメントである、と言われることが多いです。

なお、あくまでも本稿においてはコンテンツの性質としてインタラクティブという言葉を使用しています。プログラミングにおけるそれとは意味を異にしていますので、その点ご留意ください。

インタラクティブだから楽しい?

ゲームが身近になった昨今、特に映像畑の方はこのインタラクティブ性を驚異に感じている、というのが上記URLのインタビューでは語られていました。眺めるだけの映像作品では、自分の行動がストーリーに影響を与えられるゲームなどには及ばないのではないか、という趣旨です。

確かに、自分がストーリーに関与できるのであればそっちのほうが面白そうではあります。が、果たしてそれがストーリーに深みを与えるのでしょうか。なにより、自分の行動がストーリーに“真の意味で”影響を与えることなど可能なのでしょうか。

ゲームのインタラクティブとは

インタラクティブエンタメの代表格であるゲーム。プレイヤーの行動はストーリーに影響を与え、新たな道を開拓し、世界の住人たちの生きる光とすらなります。好きにできる。なんにでもなれる。よく言われる謳い文句です。

ですが、果たして本当にそうでしょうか。

何にでもなれるゲームは、本当に何にでもなれるわけではありません。
ストーリーだって、プレイヤーの行動で世界を救うことができる……わけではありません。決まった選択肢の中から定められた「正解」を選ぶことで、物語が先に進むというだけです。

ゲームにおけるインタラクティブとは、定められた範疇でできる事があるという意味です。
我々ゲーム好きは、ゲームが何でもできるからやっているわけではないのです。

インタラクティブ性は「物語」に影響を与えない

映像畑の人は、ゲームが「物語」に影響を与えるものである、と勘違いしているフシがあります。故に、その自由度や影響度に見えない恐怖を覚え、必要のない対策を練ろうとしているのではないでしょうか。

前項に書いたように、ゲームにおけるインタラクティブ性とは決して「物語」に影響をあたえるものではありません。人が作ったものですし、「物語」が無限に自動生成されるようなものでもないわけで、ゲームにはある程度定められた「物語」が存在しています。語り手と受け手の間のやり取りなどなく、受け手は定められた「物語」になるよう操作をしているだけです。

例えば、ノベルゲームなんかはプレイヤーの選択によって「物語」が分岐しているようにみえますが、実際のところそうではありません。作り手とすれば見せたい「物語」が軸に一本。その他は、大抵の場合いわゆるゲーム性を担保するために突如挿入される即死エンド――行き止まりにつながるだけの選択肢です。シナリオをコンプリートするために選択するそれを、心の底から楽しいと思っている人はほとんどいないのではないでしょうか。

物語

3つの物語

ここまで何度か「物語」という言葉を使ってきましたが、私はこれが各々のものであり、少なくとも下記の3つがあると考えています。

作り手には語りたい「作り手の物語」がある。
創作物には、完成品としての「創作物の物語」がある。
受け手は受け取った「受け手の物語」がある。

たとえば、ここにモモタロウという「物語」があります。一つの創作物として見た場合、作り手にとっても創作物にとっても受け手にとっても、それはモモタロウという一つの物語である……ようにみえますが、決してそのようなことはありません。

作り手は、痛快な復讐の「物語」を描いたつもりなのかもしれません。しかし創作物としては、なにやら楽しげな旅「物語」になっていた。それを読んだ受け手は悲しい争いの「物語」として受け取ることだってあるでしょう。

ひとつの創作物を指したとしても、このように出来上がる「物語」は少なくとも3つ以上になり得ます。

語り手の物語

創作物に対して何を込めるのかは当然異なりますが、往々にして語り手には語りたい「物語」があります。

当然、何らかの語り手としての気持ちを昇華させるためだけの「物語」もあるので、必ずしも受け手を意識しているわけではないものの、それでも一本軸の通った語り手としての「物語」があるわけです。

創作物の物語

語り手の様々な想いを受けて完成した創作物は、作り手の意図を反映した部分、必ずしも反映していない部分などが混じり合い、「語り手の物語」からは独立してしまいます。

意図する、望む、望まないに関わらず、それは絶対に起こります。作り手の力不足からくる表現の稚拙さが原因かもしれません。予算の都合かもしれません。技術的に不可能なことだってあるでしょう。

それらに折り合いをつけ、作り手が完成であるといった時点で「創作物の物語」は完成します。

媒体の違い

果たして、物語において媒体の差は重要なのでしょうか。私は、本質的に「創作物の物語」はどの媒体を通そうと同じものだと思っています。要するに伝える手段が違うだけです。

例えば、ここにブロックがあるとします。

ひとつの説明書には、テキストだけで組み立て方が書いてありました。
ひとつの説明書には、絵と文字で組み立て方が書いてありました。
ひとつの説明書は、動画でした。
ひとつには、語り手が組み立て方を直接教えてくれました。

すべて完成するのは同じ城だったとしても、過程を異にします。それこそが媒体の差なのです。

受け手の物語

3つの物語のうち、一番軽視されているような気がするのが「受け手の物語」です。そもそも、作り手の中には「受け手の物語」が存在してはいけない、私の話を聞けばよいのだと考えている人すらいると思いますが……そんなことは不可能です。
作り手と受け手が他人であり、「創作物の物語」を介してやりとりしている以上、そこに差は必ず発生します。上記ブロックの例でも出しましたが、語り手が創作物を介してその組み立て方を伝えたところで、受け手がブロックをどう組み立てるかは自由なのです。

そして、「受け手の物語」とは――ここが最も言いたいことでもあるのですが――ブロックを買ってくること、組み立てること、完成品を眺めること、浸ること、それらすべてで「物語」を構成しています。

風邪を引いて学校休んだ日、必ず見ていた映画。
誕生日に買ってもらったアクションゲーム。
友達と一緒にクリアしたRPG。
最高に面白いと思って見ていたのに最終回の意味がわからず、友人と語り合ったアニメ。

受け手は、その「物語」の中に自分の経験をみます。単純に「面白い!」と思ったことや、「自分にはあわないな」と思ったことも、受け手にとっての物語を構築する要素になるのです。

媒体の差

媒体の差はコンテンツにおける本質ではなく、全ては「物語」を伝えるための道具でしかない……とはいえ、媒体にはそれぞれメリット、デメリットがあります。

映像コンテンツは手軽であり、解像度高く「物語」を伝えることができるが、コストがかかります。
ゲームコンテンツは「物語」だけでなく、経験を与えることもできるが、手間がかかり、まさにゲーム部分が足かせとなることも多いです。

考えは人それぞれであることが大前提として、コンテンツとして成立した歴史の古さの差等で、ゲームは他の媒体よりも下に見られることがあります。ただし、上述の通り媒体に本質的な差はなく、全ては受け手がどう「物語」とするかという部分に帰結します。

映像コンテンツが危機感をもってゲーム性を導入してもそれは「物語」の本質と関係無い以上意味がなく、ゲームが映画のような表現に傾倒してもやはり「物語」の本質ではありません(ただし、FF7はゲームでこんな事ができるようになった! という驚きの物語になったのだと思います)。

かつてエンターテイメントといえば映画だった時代から、最近はコンテンツが多くなりました。映像をいつでも楽しめますし、ゲームだって皆がやります。

そんな中、受け手をないがしろにし、他のコンテンツを卑下することでしか自我を保てなくなった語り手がいたとするならば、その語り手はもはや受けいれられることはないでしょう。語り手にとって「語り手の物語」がとても大切なものであったとしても、受け手にとって大切なのは「受け手の物語」なのです。

経験が「受け手の物語」を完成させる

受け手にとって「受け手の物語」こそが最重要なわけですが、その深みを「語り手の物語」や「創作物の物語」だけから引き出すことはほぼ不可能です。

「受け手の物語」を構築するのは受け手本人の経験であり、「創作物の物語」はそのためのきっかけにすぎません。当然、作中にきっかけが多いほうが「受け手の物語」に影響を与える“可能性”は高いわけで、そういったものが名作と言われるのでしょう。が、名作であるが故に「受け手の物語」に深みを“必ず”与えるわけではないのです。

「創作物の物語」を得た受け手が、それについて考えたり、調べたり、語ったりする。そのときの風景や、一緒にいた人を覚えている。そういった経験を積みあげることで、「受け手の物語」は完成します。それは100人いれば100通りの物語ですし、「語り手の物語」とも異なります。

「創作物の物語」にはスキがあったほうが良い

「受け手の物語」を自ら構築するためにはある程度受け手自身で考え、咀嚼する必要があります。「創作物の物語」が完璧で隙がなければ、それ自体について考察をする余地がありません。それが悪いことだとは言いませんが、往々にしてそういう完璧な物語は爆発的なムーブにならないことが多いです。

創作物には時間であったり、コストであったり、何らかの制限があるものですが、完璧な創作物は、その制限内で完璧に終わるので、こじんまりと終わります。
加えて余地もありません。例えば完璧な城のブロックであれば、完璧であるという感想しか浮かばないのです。もしスキがあれば、「ここに塔があるかもしれない」とか「この部分は庭があるだろうか」とか妄想することができます。

妄想こそ、受け手にとっての経験であり、物語の深みです。
考察する時間は、そのまま「受け手の物語」を構築するための時間に繋がります。

ただ、そういった余白ばかりを気にして破綻した物語を出せばいいと思っている語り手はちょっと考え直してほしいなとも思いますが……。

最終的には時間が必須

結局のところ、受け手が物語を構築するために一番大事なのは時間です。その物語について考える時間、触れる時間、経験する時間、いずれにしてもある程度の時間を過ごさなければ「受け手の物語」になりません。

コンテンツが多く、時間の奪い合いになっている現代ではなかなか難しいことではありますが、時間をかけないコンテンツの上に、真の意味で受け手の物語が構築されることはないと思います。1時間の物語と、50時間の物語であれば後者のほうが受け手にとって大切なものとなるはずです。

おわりに

コンテンツに重要なのは小手先の技ではなく、語り手の物語でもなく、受け手に「物語」を芳醇に完成してもらうことである、というお話でした。

そういう意味では、FF14のようなMMORPGはとても有益です。

他人とプレイすることが多いので、様々な経験を得られます。
ガウディの建築のように「創作物の物語」が完成しないまま拡張を続けるので、いつまでも考察の余地があります。
なにより、時間がかかります。もっとも、生活が立ち行かなくなるレベルで時間を消費しなければプレイできないというわけではなく、潤沢に遊ぶ事ができるという意味です。

やっとFF14関連ブログにふさわしい結論にたどり着きました。

ゲーム好きとして、FF14好きとして、またエンタメ好きとして、コンテンツに貴賤はないと思っています。違いはコンテンツとしての歴史の深さだけ。どれも「創作物の物語」を語る手段であることに違いはありません。

いち受け手として、作り手達がその媒体に上下をつけることなく、これからも素晴らしい「物語」に触れられればいいなと思っています。
そしてFF14から、これからも素晴らしい「受け手の物語」を紡いでいけたら良いなと思う次第です。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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